貧乏物語と資本主義

このブログでは、本について触れたことはなかったが、たまには本についても取り上げてみよう。
さて、今日取り上げるのは、河上肇の「貧乏物語」である。
この本の存在については前から知ってはいたが、最近よくいただく佐藤優の著書の中で、これからのキーワードとして「貧困」があげられ、この本のことが何度か掲載されていたので、ふと読んでみるつもりになった。
全く恥ずかしいことであるが、「○○物語」というくらいだから、ある貧乏青年にまつわる小説の類かと思っていたら、まったく違っていて、これは純粋な学術研究書(とはいっても新聞に連載されていたくらいだからとっつきにくい内容ではない。文語調なので現代人には少々読みにくい点はあるが)、つまり貧乏に関する研究書なのであった。
この本では、上編で貧乏の状況を欧米のデータから紐解き、中編でなぜ多くの人が貧乏しているのかを分析し、下編で貧乏対策を論じている。
これが書かれた(朝日新聞に掲載された)のは、大正5年(1916年)であるから、第一次世界大戦下で戦時景気に沸く日本、今から遡ること1世紀近く前であるが、今も貧乏という社会状況にはほとんど変化がないといっていいだろう。
それは当然のことなのだ。資本主義という社会構造自体が今日まで変わっていないのだから。資本主義は、貧乏という貧民層と金持ちという富裕層を必ず生み出す仕組みであり、理論的にその状況(その格差)は拡がっていく仕組みなのだ。
その状況(その格差)を是正しようと、いろいろな方策を立案し、ルールを運用してきたが、1世紀前とその富の偏在の状況にはほとんど変化がない。
トランプで大富豪(あるいは大貧民)というゲームがあるが、あれはまだマシな世界で、現実にはもっと厳しい。ゲームでは、配られるカードについては機会平等であるが、現実には配られるカード自体に既に大きな格差がある。(大富豪には、絵札以上しか配られないような・・・)更にゲームでは、大貧民(貧民)は、大富豪(富豪)に、いいカードを渡すルールがあるが、現実世界でも、金持ち優遇や搾取の構図が見える。世の中とは、金持ちがルールを作り、金持ちに都合のよい方向性で動く。金持ちはいろいろな場面で優遇され、そのために、格差も生み出され続けている。
要するに、貧乏というものを考える上では、資本主義は切り離せないわけであり、貧乏対策なるものを考えるならば、根本的には今の資本主義に代わる社会構造はどうあるべきか、を考えることにつながるのだろうと思う。
そう、ポスト資本主義社会とはどんな社会であるべきか、ということである。
河上肇は、貧乏対策として「ぜいたく品(奢侈品)の廃止」を示した。そもそも「ぜいたく品(奢侈品)の廃止」が本当に貧乏対策につながるのか、という疑問が残るし、人々の道徳心に頼るような「ぜいたく品(奢侈品)の廃止」が実現可能なのかという問題もある。ただ一方では、自分自身は人の道徳心に訴えることは一面では有効だとも思う。ただ、道徳心に訴えて人々の行動を変えられるか、といえばそれだけでは無理がある。それは、かけ声、スローガンのような形だけで終わってしまうことになりかねないからだ。
自分自身は、人々の価値観を変化させていく(それが難しいのは承知の上で)ことが、富の偏在縮小、貧乏層縮小、普通に働いている人が普通に人生を全うできる社会につながるのではないかと考えている。
(今の世の中は、ワーキングプアと言われているように、普通に働いていても普通に結婚して、普通に子供産んで育てて、というような普通の人生設計もできない人が多くいるような異常な社会。このような社会に活力は生まれない。)
人の価値観を変化させるとは、つまり拝金主義ではなくて、拝徳主義とでもいうべきだろうか、お金がすべてではなくて、お金よりも人としての徳を積んだ人の方が素晴らしいと思える価値観の変化である。それは言葉だけのものではなく、社会システム上実質的に徳を積んだ人が世の中で尊敬され、その立場が明確になることが必要である。
何をもって徳を積むとするかは議論の余地があるし、徳を積むことは、誰かに賞賛されたり、認められるために行うものではない(つまり陰徳)というご意見もあると思うが、言いたいことは、お金以外に価値観を見出す社会をつくるということである。
今でも、特に欧米の大富豪には、自ら慈善事業に乗り出している人も数多くいるが、あのようなことが、当然のこととして深く浸透し、広く一般的に行われるように後押しをする社会のシステムづくりが必要なのではないかと思う。
最近では、エコがブームである。
欧米のセレブも、エコを意識していないと恥ずかしいとばかりに、それまでは大排気量のバカでかいアメ車などに乗っていたのをトヨタのプリウスに乗り換えるとか、地球環境に優しい行動を取ることが価値観として根付き始めている。
お金についても同様である。
お金をある一定以上貯め込んでいたり、自分のためだけに浪費している人が、世の中の人から「あの人は、未だにお金に執着してかっこ悪いわね。」とか後ろ指を指されたり、自分自身で「かっこ悪いから行動を改めよう。」となったり、世の中のためにお金を還元するような人を、「さすが」「素晴らしい」とか、それ自体は陳腐な言葉でも、社会システム上実質的に賞賛されるようになってくれば、と考えている。
エコに価値観を見出せる社会のように、トク(TOKU)に価値観を見出せる社会が、人々の徳を積むという行動を後押しし、その行動が貧困層へのお金の流入、富の偏在の縮小につながるのではないか、と思うのだ。
そういった社会が、ポスト資本主義社会の一つのカタチではないか、と思う。
資本主義に対抗する形の社会主義は失敗に終わったが、資本主義も貧乏の問題を含めて多くの問題を抱えている。
資本主義については、まだ書きたい点もあるが、今日は「貧乏物語」に絡めての資本主義についてということで最近考えていることを書いてみた。
ポスト資本主義社会の模索は、既に始まっている。後から振り返れば、今私たちは過渡期にいるのかもしれない。

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